加藤清正公ゆかりの地 丸岡城跡史跡公園へようこそ
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かおるつるおか [丸岡城ものがたり]

丸岡地区は、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道など交通の要衝にあったことから、かつて庄内を支配した代々の領主によって楯館(丸岡城)がおかれていましが、元和元年(1615)、一国一城令により廃城。のちに酒井氏の藩領になりました。

寛永九年(1632)に加藤清正の嫡男・忠廣が細かな不行跡のため改易され、庄内藩(藩主・酒井忠勝)に預けられて丸岡城に入りました。

酒井家は、丸岡城跡に居館を新築して住まわせ、丸岡領一万石の領地管理に助力するなど温情ある待遇をしたといわれています。

歴史に想いをはせながら、史跡や清正公が眠る菩提寺天澤寺、楽朋館などゆっくりとお楽しみください。

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ご案内

丸岡の起源

丸岡城跡史跡公園から月山眺望

それは1500年以上前の出来事!!

霊亀2年(716)、大和朝廷は出羽国の開拓、軍事に従事させるため信濃、上野、越前、越後からそれぞれ100戸を移住させました(続日本記)。

この年、丸岡には信濃国から移住してきた人々によって、産土神を祀る神社(諏訪大明神)が創建されました。

丸岡の地名は、信濃国と共に庄内に移住してきた越前国丸岡との関係が深いと考えられています。

清正ゆかりの聖地

発掘調査で大発見!

五輪塔

五輪塔地下から
九州肥前弓野窯焼きの壺出土

五輪塔地輪の「正保4年(1647)12月3日清地院居士敬白」の刻字も判明されました。

肥前弓野窯焼
肥前弓野窯焼
「二彩唐津松山紋壷」
(天澤寺蔵)

正保3年(1646)2月29日の丸岡大火で焦土と化した城館で忠廣公は、加藤家の縁者でもあった天澤寺住職とも諮り、清正公の御尊骨を太夫石から天澤寺世代墓地中央に移し、その上に五輪塔を建立し、永代供養の方途を講じられたものと推断されました。覆堂は、五輪塔を風雨から守るため昭和42年(1967)4月に建立されたものです。

清正閣

清正公着用の
鎧(最上胴丸)を発掘

昭和24年(1949)、遺蹟顕彰会による発掘調査で、このお堂の地下から清正公着用の鎧が出土し、天澤寺に保存展示されています。


  • 清正公のお墓に眠っていた、
    鎧の残欠
    (天澤寺内展示)

  • 平成28年(2016)、甲冑師・熱田伸道氏によって復元された鎧
    (天澤寺内展示)
昭和24年
「清正ゆかりの聖地」探索調査
●五輪塔地下から肥前弓野窯焼きの壺出土
●清正閣地下から清正公着用の鎧(素懸威黒塗横矧五枚胴具足)を発掘
昭和38年
山形県指定史跡に認定
平成11年~18年
庄内藩に残る古絵図を基に城址発掘調査
●多くの遺構を検出
御書院、御居間、御袋様館、泉水、石敷道路、水路、土塁などの遺構
平成19年
丸岡城跡公園整備工事に着手
礎石による復元や露出展示、案内碑など配置
平成22年
3月竣工

加藤清正公が眠る菩提寺 天澤寺

天澤寺は、加藤家終焉の地としての史実とともに、「清正公が眠る菩提寺」として、全国から多くの参拝客が訪れます。参道では、禅の思想を具現化した理想的な人間像という十六大阿羅漢が出迎え、加藤清正公の墳墓(五輪塔)や清正閣をはじめ、綴錦織の世界的巨匠 遠藤虚籟の糸塚や墓碑などがあり、秋深くなる頃、境内の大いちょうの木が黄金の美しい彩りを放ちます。


  • 【五輪塔】清正公の墳墓(山形県指定史跡)

  • 【世代墓地】天澤寺代々の住職を祀った世代墓地の真ん中に五輪塔が立っていた。(中央の角柱)

  • 【清正閣】地元丸岡の人々に「清正公さま」と呼ばれている。昭和24年9月、地下から清正着用の鎧(最上胴丸)が出土した。

  • 【忠廣公家士の墓】
    故郷へ帰ることなく生涯を主人に仕え、家士の魂がこの地に静かに眠る。

鶴岡DEEP!今に伝える武家屋敷
鶴岡市指定有形文化財 日向家住宅/丸岡城址史跡公園ガイダンス施設 楽朋館(らくほうかん)

  • ▼創建当初の間取り図(解体調査より)▼

◎建築様式 木造平屋建・直屋形式・寄棟造・茅葺
桁行/9間
梁間/5間
◎創建 文久2年(1862年)
◎特徴
・柱はすべて良質の杉材を鉋(かんな)がけされてあり、かつて部屋はすべてが棹縁天井張りで総長押だった。
・正座敷の裏に上段形式の小座敷(茶室)がある。
・上質の独立座敷が、建物の下手前面隅の位置にある。
・床の間を有する部屋が複数ある。

移築前外観(指定時)
  • 槍掛け
  • 釘隠

この「日向家住宅」は、江戸末期の武家住宅で鶴岡市内鳥居町(旧鳥居川原)にあったものです。棟札には[日向庄之助家作 文久二年(一八六二年)戌四月十三日]とあり、代々日向家の居宅として使用されてきました。

庄内藩政期の武家住宅の実態を留める例がほとんど失われつつあるなか、市の建築文化史上貴重な建造物として市指定有形文化財となりました。

その後、部材として保管されていたものを、復元移築し、「丸岡城跡史跡公園ガイダンス施設」として活用しています。丸岡史跡から出土した遺物やパネル展示を中心とした、加藤清正公忠廣公ゆかりの地域の歴史や文化をわかりやすく紹介しています。

丸岡城跡史跡公園 散策マップ

日向家住宅 虚籟庵羅漢閣 天澤寺 遺構
マップ内をタップするとそれぞれの
説明ページをご覧いただけます。

丸岡城跡史跡


  • 遺構/石敷道路
    清正公夫人のお居間側の通路として利用されていた。

  • 遺構/水路
    城内排水のための整備された水路。

  • 遺構/御書院
    正面は忠廣公が使用していた御書院跡。
    ここには酒井家から毎週、重役が訪れていた。

  • 太夫石 巫子石/忠廣が最初に父清正を幕府より守ろうと仮埋葬した聖地。

  • 樹齢350年 みちのくしろやなぎ/今も丸岡城址にのこる古木

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 庄内地方は鎌倉時代より400年の間、武藤氏の支配下にあり、戦国期以降上杉領、最上領となりました。丸岡は庄内と内陸を結ぶ交通の要衝に位置していたため、代々の領主により大宝寺城(鶴岡城)の支城として楯館(丸岡城)がおかれていました。

 元和8年(1622)には、酒井氏が庄内藩主として入部。寛永9年(1632)肥後五四万石の大名加藤忠廣公は、幕府より一万石をもって改易され、庄内藩に預けられました。丸岡城跡に居館を構え、22年間を過ごし、運命に翻弄された波乱の生涯を終えました。

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 昭和24年10月城跡内の太夫石・巫子石の発掘が行なわれ木炭や陶磁器片が出土。昭和38年、丸岡城跡及び天澤寺境内の史跡は「丸岡城跡・加藤清正墓碑」として山形県指定史跡に認定されています。
 平成11年から18年まで、庄内藩に残る古絵図を基に行った発掘調査により、多くの遺構が検出されました。
 平成19年には丸岡城跡公園の整備工事に着手。御書院、御居間、泉水、道路、水路、土塁などの遺構を、礎石による復元や露出展示、案内碑によって往時を偲ぶことができるようにしたもので、平成22年3月に竣工しました。

丸岡に遺る歴史 あれこれ

平和を祈り続けた
綴れ織り工芸家 遠藤虚籟


遠藤虚籟(1890-1963)(えんどうきょらい)

遠藤虚籟(本名順治)は、明治23年(1890)鶴岡市大宝寺に生まれ厳しい修行を経て、日本を代表する綴錦織作家として活躍。

崇高な信仰に基づき戦争犠牲者万霊供養世界平和祈願の仏画を制作。その作品はニューヨークの国連本部にも納められている。


綴錦織
戦争犠牲者彼我一切万霊供養
世界平和祈願綴錦曼荼羅 中尊阿弥陀如来像
虚籟作

丸岡を世界平和発祥の地に――

戦後の一時期、天澤寺に疎開。制作途中に出る端糸屑糸を、戦場に散り平和の礎となった無名の戦士になぞらえ、埋葬供養するための糸塚を清正父子の霊地である天澤寺に建立したいと念願し亡くなった。

糸塚は、その遺志を受けた顕彰会および有志によって建立されたもの。


虚籟曼荼羅糸塚(きょらいまんだらいとづか)

上の山城主
里見一族供養祠

里見氏は、直江兼続が率いる上杉軍を慶長出羽合戦と上山の戦いで少人数で撃退し活躍した武将である。最上義光の嫡子・義康が父義光の勘気をうけ高野山入りのため北陸路に向かう途中、丸岡城下の一里塚で義康(主従)一行14名が襲撃された。里見民部の子・権兵衛は義康の従者だったので、疑いをかけられ切腹を命じられる。

里見越後守は最上義光の処置に憤り、上山城を一族家臣500余人が完全武装の上、白昼堂々と上山城を脱出した。義光の追手が心配されたが、最上家の忍びの者20人が後を追った。一行は北陸に走った後、加賀の前田家、次いで越前の松平家に士官を申し入れるが最上家のさしがねにより、ことごとく失敗に終わる。

流浪の旅の末、高野山入りするが一族は捕われの身となり、ここ丸岡城に幽閉された後、義光の遺言により慶長19(1614)年10月一族23名がこの地で切腹している。

銀杏の木