大きな建物は、150年余の歴史を刻む蚕室です。ここは蚕を育て絹糸を生産するなど絹産業を地域全体に広めた「絹の街鶴岡」の原点です。
松ヶ岡開墾場は、明治5年(1872)、旧庄内藩士が原生林を切り拓き、苦労の末、開墾を成し遂げた土地です。
藩士3000人が庄内一円からの支援のもと、刀を鍬に替えて約300㌶を開墾し、明治10年(1877)までに10棟の大蚕室を建造しました。今も、開墾を指揮した松ヶ岡本陣、5棟の大蚕室、蚕業稲荷神社などが現存し、明治初期の面影をそのままにとどめている国内でも貴重な場所です。
現在は、歴史を伝える記念館や展示室、ショップなどに蚕室を利用しています。季節のマルシェ、ワークショップも開催するなど楽しい憩いの場所になっています。
ごゆっくり、お楽しみください。
ご案内
明治8年(1875)に建造された一番蚕室を活用し、開墾の歴史やその後の「サムライゆかりのシルク」への歩みを資料とともに紹介しています。当時の建築技術もご覧いただけます。
- 展示内容
- ◎歴史を伝えるシアタールーム
◎蚕室建設を再現した3D映像
◎タッチパネルで見る資料
◎西郷隆盛と松ヶ岡の歴史
◎当時使用されていた蚕具道具 他
日本語と英語が選べます。
全国の土人形・土鈴等
約25,000点を展示しています
東京の旧庄内藩邸に鎮座していた神社を、明治8(1875)年に開墾地経塚丘上に遷座し、松ヶ岡神社とした後、明治28(1895)年に蚕業稲荷神社と改称し蚕業の守護神としたものです。
明治初期の開墾当時の様子が
写真に残っています
開墾当初の写真
脇差をさしている人や着物をきている人がみえる
開墾当時の休み小屋とたくましい開墾士達
白井組桑田
本田組桑田
開墾当初から組を作り団結して仕事をした。開墾が進むと桑畑を作り畑の前に組柱を立てた。サムライたちの意気込みがうかがえる。
三番蚕室
十番蚕室
蚕室群
鶴岡・庄内のシルクを見て、聞いて、触って、感じながら学べる体験型施設。1頭の蚕からはじまるシルクのストーリーをぜひご体感ください。
1階は絹産業に理解を深める学びと体験のエリア。庄内地域にそろう絹生産の一貫工程を映像や展示品で知ることができます。
2階には養蚕棚も復元されており、鶴岡市の絹産業の歴史や文化を楽しみながら学べる施設です。
コースター作りなどを体験できるエリアや、シルク製品のショップもあります。
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プロローグ
エリアシルク産業の
歴史を知る -
シルク産業
エリアシルク産業の
現場を感じる -
つむぐ未来
体験エリア鶴岡のシルクの
魅力に触れてみる -
つむぐ
未来シアター受け継がれる
鶴岡のシルク -
ショップ最新のシルク製品
お買い物
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養蚕室養蚕室を
見てみよう6月と9月
養蚕棚で
蚕の展示飼育 -
研修室シルク製品
高校生の研究・
コレクション織物文化展示等
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ミニ展示室
1871(明治4)年4月、鹿児島から上京した西郷隆盛と菅実秀は、東京で初めて対面します。
菅は、戊辰戦争に敗れた庄内藩の復興について相談しました。
藩士たちに開墾をさせ、絹産業を盛んにすることで、国の産業を興し、賊軍の汚名をそそぐという話をすると、西郷はこれに賛成し助言を与えました。
同年9月、菅は庄内に戻り、絹の生産から製品づくりまで一貫した産業への道のりがスタートしたのです。
2人はその後も交流を重ね、その交友は「徳の交わり」と呼ばれています。
西郷隆盛から贈られた「気節凌霜天地知」という言葉は、困難な事業に取り組む松ヶ岡の開墾士たちの心の支えになりました。
開墾士の苦労は語らずとも天と地が知っているという意味です。
西郷さんへの
感謝の心、今も……
西郷を慕う気持ちは今も受け継がれており、松ヶ岡の多くの家には、西郷の肖像画が掲げられています。
南州翁が命名した
松ヶ岡のお茶
西郷隆盛は、茶銘を、開墾にあたって中心的役割を担った六小隊の隊長の名前から考案してくれました。直筆の手紙が残っています。(記念館に複製が展示されています)
残念ながら気候はお茶の栽培に的さず「北限のお茶」の実現・産業化には至りませんでした。
現在は、西郷隆盛が茶銘を書いて期待を寄せたくれた松ヶ岡茶の復活を願って、松ヶ岡お茶畑「松ヶ岡茶nomi隊」有志のみなさんが栽培を進めています。
「松ヶ岡茶nomi隊」ボランティアによる茶畑の冬支度