歴代藩主の...
幕末に建てられた藩主の隠居所「御隠殿」では、江戸時代の庄内の歴史を紹介しています。
◆鶴ヶ岡城ジオラマ模型
◆庄内竿(釣竿)
◆歴代藩主の書画
◆展示解説動画
❶歴代当主とゆかりの品
❷庄内藩士の鍛錬・磯釣り
❸庄内の戊辰戦争
このページでは、レアな「御隠殿エピソード」をご紹介します!
ご案内
江戸時代、大名の妻子は江戸に住んでいましたが、幕末に帰郷が認められ、住居を整備しました。
隠居した藩主・忠発の住まいが、この「御隠殿」です。江戸中屋敷を北前船で運んで移築、庄内領内の材木も大量に使用したと記録があります。
徳川家の姫君の「赤門」も、
江戸より移築!
将軍家の姫君が嫁ぐ際、大名の江戸屋敷内には、特別な住居と朱塗りの門が建てられました。
酒井家には、田安徳川家より、脩姫・鐐姫・鎮姫がお輿入れしました。
この赤門は、御隠居・忠発公の正室・鐐姫のための門で、江戸中屋敷から移築されたと伝わります。
江戸時代が終わると、旧藩主は東京に住むよう命じられ、ほとんどの家は地元を離れました。庄内では、藩校致道館が廃校、鶴ヶ岡城は解体されましたが、旧藩主兄弟・忠篤と忠宝は、ドイツ留学後に鶴岡に帰郷しました。
致道館祭器や典籍、教育機能などを引き継ぎ、伯爵となった酒井家は、旧藩士と強い絆を保ち続け、庄内の経済・文化の発展に尽くしました。
酒井家は、旧藩士たちの学びの場として、邸内に酒井家学問所・文會堂を設け、藩主自らも共に漢学を修めました。
中根卓弥「夢幻録」より、副島来鶴
「御寄合(およりあい)」と呼ばれる勉強会も度々開かれました。明治政府の重鎮・副島種臣が鶴岡に滞在した際は、御隠殿の奥座敷で詩経の講義が行われました。
床下に大甕発見!何のため!?
この大甕は、黒川能などを演じる際に音を反響させる「音響効果」のため埋められたと考えられています。江戸時代中期から藩主の御前で演じられた黒川能。能楽を愛した御隠殿の主・忠発のために、大甕が埋められたのかも知れません。
- 東北地方では稀にみる
書院庭園。
築山林泉庭園の様式で、
春は鶯の声も聞こえます。
- 庭の池泉は、江戸時代
後期の文政年間に取水
したとされます。
- かつては遠く鳥海山を
借景として取り入れたと
いう庭園。木々が育った
現在では、紅葉が楽しめ
ます。
- 築山の正面中腹に石を
立て、枯滝と峡谷の風景
をつくり、静寂な空間を
演出しています。
昭和26年に移築された、簡素な趣のある茶室。幕末から明治の激動期、庄内藩の中心人物・菅実秀の遺愛の庵で「三餘室(さんよしつ)」と命名されています。
三餘とは……
「冬は歳の余り、
夜は日の余り、
雨(陰雨)は時の余り」
勉学に利用すべき三つの余暇のことをいいます。
サムライゆかりのシルク
構成文化財
松ヶ岡開墾に始まる鶴岡の絹産業の歴史。「サムライゆかりのシルク」の名で、日本遺産に認定されました。
開墾後も松ヶ岡を守り続けた旧藩士たちは、酒井家からの励ましと支援で、幾多の困難を乗り越え、絹産業の歴史をつくりました。
御隠殿のそばにあった
酒井家蚕室と文會堂
御隠殿のそばにあり、酒井家学問所・文會堂として旧藩士たちの学びの場にもなりました。